(更新・再掲載)
日本人が英語を学ぶ必要性の議論は、前提が間違っている?
以前、「日本人と英語の社会学」という本が話題になりました。この本はサブタイトルで「なぜ英語教育論は誤解だらけなのか」と問い掛けています。
日本の英語教育の問題を議論する際、前提とされていることの多くは、よく検証していると単なる思い込みであることから、日本人が英語を学ぶ意義は実はそれほどない、と主張しているようです。
議論としては面白いですが、本当にそうでしょうか?
私には、それほど説得力があるとは思えません。
例えば筆者は、
「これからの社会人に英語は必要不可欠」
「日本人は世界で一番の英語下手」
「英語ができると給料アップ」
「女性は英語が好き」
などの前提は、全て社会学的データでは否定されてしまう、と示しているようです。
残念ながら本書は読んでいないのですが、著者の寺沢拓敬氏による、『「日本は英語化している」は本当か?』という題のオンラインの論説を拝読しました。
この論説では現在、日常的に英語を必要としている日本人は1割にも満たない、ということをデータで検証しています。
一般の議論で前提となっていることをデータで検証し、根拠となる事実がないことを示す手法にはなるほどと思わされます。
しかし、そこから、「大多数の日本人には英語が今必要なく、今後も必要ない」から、「英語教育にも力を入れる必要はない」という言説を導き出すのはやや短絡的に思われます。
英語を学ぶ意義ー英語の影響力
そもそも、日本人が英語を学ぶ意義とは何なのでしょうか。
更に、日本人が英語を学ぶ理由と、その他の、英語が母語でない人が英語を学ぶ理由に違いがあるのでしょうか。
もし違いがあるならその理由にこだわるべきでしょうか。
英語を学ぶ必要性、それは余りにも当たり前すぎて面白くもない事実ですが、英語は世界共通語として確立された地位にあることに集約されます。
全世界全人口に占める割合からすれば、他にも使用者の多い言語はあります。
こちらのデータによると、英語話者の数は世界第3位。
1位は中国語、2位はスペイン語です。ちなみに日本語は9位です。
しかし、英語の影響力は桁違いに強いです。
膨大な英語の情報量
例えば、マルチリンガルが多いとされるEUの世論調査によれば、母語以外に話すことができる第二言語の中で、最も多いのはやはり英語だそうで、3人に1人が英語を話すことができるという統計もあります。
母語以外で最も重要な外国語は何だと思うかという質問に対しては、8割近くが英語と回答。
そして、このデータはオンラン上で誰でも見ることができ、英語で書かれているのです。
オンラインの言語は、一昔前に比べれば英語の寡占状態が終わり、中国語やスペイン語、アラビア語の利用者やコンテンツ製作者が増えています。
でも有用で信頼できる情報や記事が、英語で書かれていることは多いのです。
研究言語としての英語
また、科学や研究の世界では、英語が出来なければ仕事になりません。
科学論文はほとんどが英語で出版されています。自然科学分野では90%以上、社会科学でも75%以上は英語で出版されているというデータがあります。
理研の英語論文数は2005年に2000、しかし日本語論文数はたったの174だった、という話もあります。
そして、科学論文の英語の寡占状態は加速しています。
このような英語の情報量が何を意味するかというと、様々なグローバルなトレンドを俯瞰して分析するには、英語ができた方が有利な状況が厳然と存在するということです。
英語は単純に、世界に影響を与えることのできる言語としての地位が高いといえるのです。
日本で科学がこれだけ発展したのは、日本語で科学の議論が出来るからだという理論もある様です。
しかし、だからといって英語が不必要だとするのは論理の飛躍です。
日本語で科学の議論ができるという土台があり、更に英語ができてこそ現代科学に貢献することになるといえます。
これは、バイリンガルの理論と正に重なります。
英語ができてかつ日本語ができることが求められる時代は、とうの昔に始まっています。
英語ができるようになることは日本語能力の低下を招く訳ではなく、むしろ逆で、両言語を操れる人にこそチャンスがあるといえます。
実際に、バイリンガルの研究では、二か国語を話せる人の母語の能力が、一か国語だけ話す人の能力に劣っているというデータはありません。
(これについてはまた別記事に書きます。)
科学者として論文を執筆する人や、それ以外でも様々な英語の情報やデータを利用する人はそれこそ人口の1割にも満たないかもしれません。
それでも、より効果的な英語の学習方法が分かってきて、日本以外の多くの国ではそれを実践している時代です。
「英語は大多数の日本人に今のところ必要でない」という言説が受け入れられ、英語ができなくてもよいのだという安心感に包まれてしまってよいのでしょうか。
単なる英語熱を超えた、真の議論を
日本人の英語熱に疑問を呈する意義は大きいとは思います。
日本人が英語を学ぶ動機は様々ですが、メディアによって作られた幻想への憧れ、いわゆる「英語が話せるとカッコいい」(つまり日本人はカッコ悪い)からという理由で英語を学ぶ必要はないからです。
しかし、だからといって、それほど英語を使う必要性が現代日本にはない、という言説が歓迎される土壌が今の日本にあるとしたら、それはかなり興味深い現象です。
EUの人々の大多数が、英語ができた方がよいと考えているのは、上に述べたような英語の影響力の大きさを一般の人も十分、かなり素直に納得して認識しているのかもしれません。
翻って日本では、素直に納得していないのかもしれません。
ビジネスや日常生活で今のところそれほど必要ないのだったら、そこまでお金や労力をかけてやらなくてもよいのでは、と思っている (少なからずの人がそう思っている、のかもしれない)。
それは、もしかしたら、英語圏のイメージによって投射された、時にネガティブなイメージがある「日本」から、そういったフィルターを通さずに「日本語」で自分たちの立ち位置を定めていきたいということを表しているのかもしれません。
でももし、日本語の地位とか、日本人としてのプライドを守るために英語を学ばなくてもよいと思うのだったら、近視眼的です。
日本は異文化を受容しながら発展してきたことは明らかですので、もっと自信を持って今後も他文化を積極的に受け入れて発展していって欲しいものです。
そして、もっともっと、なぜ外国語を学ぶのかを考え、議論してもいいのではと思います。