なぜ英語を話せるようになりたいのか?
「英語が話せるようになりたい」と思う日本人は多いですが、その理由を突き詰めて、そう思う心理というか根本的理由は何なのか、考えたことはありますか?
そう思う欲求の根っこはどこにあるのか、ということです。
仕事や勉強で特に必要でもないのに、話せるようになりたいという人も多いわけですが、それって一体どういうことでしょうか?
一般に語学ができるということは教養の一つです。
日本人にとって英語が話せるようになりたい、という欲求があるというのは、やっぱり英語を話せる人が「ワンランク上」とみなされるからではないでしょうか。
それは向上心のなせる技であり、真面目さを表すもので素晴らしいともいえます。教養があるというのも、結局、教養がない人よりワンランク上ということともいえます。
必要に迫られて英語を上達させなければならない人も、この「ワンランク上」という思考について一度はよく考えてみる必要があります。
このワンランク上って一体どういうことなんでしょう?単に格好いい、というのがあると思いますが、なんで英語ができると格好いいんでしょうか?
「英語ペラペラ」とは「憧れとしての英語」
あまりに当たり前かもしれませんが、やっぱりグローバル化とか真の国際化とか言っても、現代社会は英米に代表される第二次大戦後の大国が世界の中心として 機能し続けています。
特に英語圏は政治だけでなく文化やビジネスでもまだまだ世界の中心。多様化が進んでいますからそうばかりともいえないのですが、その幻想は やっぱり人々の頭の中に生き続けています。
だから、英語を話す国には多少なりとも憧れがある日本人もいるといえます。
そのような憧れの念がある国の人とその相手の言語でペラペラ話したいということはどういうことでしょう。
それは、とりあえずは相手の価値感に反発せず、受け入れた上で相手に対等に扱ってほしいと願うことです。いわば恋してるような状態です。だって、相手と、言語ができるかどうかはどけておいて、対等に何かのテーマについて話したい、といってる訳ではないからです。
つまり、相手の言語で相手に認められて、何でもいいから話がしたい。そうできれば格好いい。
ということですが、これは結局最初に相手の優位を認めています。特に話の中身など関係なく、ただペラペラになりたい、というのはだからつまり中身はどうでもいいからかっこいいアメリカ人のようになりたい、あるいは英語を話している人に認められたいということを意味することが多いのではないでしょうか。
「外国語が話せるようになる一番の近道は、その言葉を話す人と恋人になること」というのはよくいわれることです。
でも、このような心理状態では、自分が納得できるようなレベルの英語力に到達するのは難しいのではないかと思います。
なぜかというと、ワンランク上の英語ができる自分のイメージにとらわれてしまうからです。
もっと強く言うと、英語学習の動機が、自分は「英語ができない」という劣等感に支えられているといえます。
「ワンランク上」ではなく「道具」としての英語を意識する
劣等感が動機づけになるのも最初はいいかもしれません。
でも、外国語の習得は地道な作業です。格好良さだけを求めて、中身は二の次と思っていると、外国語の習得のための学習を続ける動機としては維持しにくいでしょう。
表面的に少し発音などを直して(それだけでも努力が必要ですが)、ペラペラに近づくことは可能だと思います。
これだけやれば英語ができるようになる!という謳い文句の教材が売れ続けるのは格好良さを求めて英語をやりたい人が多いからでしょう。
それだけではできるようにならないのは前に書いた通りです。
何のために英語ができるようになりたいのか、その理由は一人ひとり違うはずです。
それなのに、ただ「ワンランク上」を目指していいると、中身がどうしても置き去りになります。
英語を道具として何がしたいのか。日本の、あるいは自分の何を伝えたいのか。
あるいは、英語の情報をどう利用したいのか。
そこまで掘り下げて勉強しようと思わなければ、結局英語をモノにすることは難しくなります。つまり、どんな内容を話すのか。何のために英語を通じさせたいのか。そのためには発音にどの程度注意すべきなのか。
つまり、「ワンランク上」の英語ではなく、真の「道具」としての英語が意識されるべきなのです。
逆に言うと、そこまで考えて英語と自分の関係について意識していれば、これだけ英語の学び方や教材の選び方が氾濫していても、人に何か言われる度にブレたりせず、上達も速くなるはずです。