“Becky with the Good Hair” という言い回しを聞いたことがありますか?
私も知ったのは最近ですが、米国では結構応用され、あちこちで使われている表現なんです。
出典はビヨンセ(Beyoncé)の「Sorry」という曲の歌詞で、これに関わる言説をみていくと、米国の多文化社会の理解にもつながります。
まずはこの表現の意味について、解説してみたいと思います。
Becky=ごく一般的な「白人の女性」
ビヨンセの「Sorry」は2016年、アルバム「Lemonade」からシングルカットされたヒット曲です。
歌詞はビヨンセが自分を裏切った恋人に対し、自分が悪かったなんてこれっぽっちも思ってなくってすまないねえ、と悪びれることなく恋人と対決するといった内容です。
これがビヨンセの実生活に基づいているのではないか、 つまりこの歌の中の恋人がビヨンセの実際の恋人なのかということと、そうだとするとその裏切り行為のお相手の”Becky with the good hair “とは誰なのか、ということをめぐって臆測を呼び、話題になりました。
ここではそのビヨンセの恋人とか浮気された相手についてはおいておくとして、Beckyという表現だけについてみてみますと、
Beckyとは 「ごく一般的な白人女性」
を指すと言われています。
そして「with the good hair」ということで、白人女性であるということで優遇されることがあるという事実を強調しているのではないかと思います。
というのは、黒人女性と髪というのは、結構深い歴史的意味合いがあるのです。
黒人女性と髪
差別というものが厳然と存在する時、差別される側は大抵、意識的あるいは無意識的に、いろいろな戦略を立ててそれをしのごうとします。
黒人への差別がもっと激しかった時代、特有の縮れ毛をまっすぐに伸ばそうとして、少しでも白人に近づこうとした、というか黒人の特性を無くす努力をしていた人、特に女性は多かったようです。
黒人の髪の毛は、「まとめる」のが大変ともいわれ、自分たちが自分でその髪の毛を表現する際には”nappy”という言葉を使うことがあります。
ただ、特に黒人でない人、特に白人が相手の黒人に対して”nappy”ね、などと使うと失礼というか、差別的になるのです。
被抑圧側(黒人)の間ではお互いに普通に使っている形容詞でも、その内輪の言葉を外部の、抑圧側(白人)が取り出して、黒人のことを表すのに使うということで、白人がnappy(である黒人)を差別してきた、という歴史的事実が呼び起こされてしまうということがあると思います。
また、nappyであることの苦労を知らない外部者がその言葉を使うということがそらぞらしいという意味合いもあるでしょう。
夫婦や友達などで良い関係を保つためには、相手が自分の親に対する不満を言っているときにも、同意しないのが鉄則、というのがあると思いますが、それと同類の問題ではないでしょうか。
実は
「Nappy Hair」
という絵本もあります。
縮れ毛の髪の毛を持つ女の子が自分の髪の毛を肯定していくという内容ではあるのですが、評価が分かれるのは、髪の毛というのは実は非常に繊細なトピックだからではないかと思います。
ちなみに、英和辞典をひくと一つだけ訳語が載っていたりすることもあるようですが、その訳語だけが正しいわけでは決してありませんので念のため。
つまり、Becky with the Good Hair というのは、自分を裏切ってnappyな髪の毛など持っていない白人の相手のところに行った相手に対し、あんたのことなんかなんとも思ってないよ、と啖呵を切っている歌なんです。おそらく。
“Becky with the Bad Grades” は?
では “Becky with the Bad Grades” とは何でしょうか。ここまでくると想像できると思いますが、
「成績の悪いベッキーちゃん(白人)」
です。
随分ひどい表現ですが、こんな不名誉な呼ばれ方をした女性がいたんです。
ツイッターのハッシュタグまでありました。
彼女は、テキサス大学オースチン校を訴えた裁判の原告として有名になりました。
テキサス大学出身の家族や親戚に囲まれて育ち、小さいころから自分はテキサス大学に行くことを夢見ていたそうですが、成績はそれほど良くなかったようで、テキサス大学には志願したけれど不合格だったそうです。
米国の大学は日本のような入試制度ではなく、不合格だった生徒が翌年また志願することはほぼ意味がないと考えられていて、不合格となったら大抵別の大学に進学します。
彼女も他の大学に進学し、無事その大学を卒業し、きちんと就職までしました。
でも、自分より成績の悪い「黒人」や「メキシコ系」の生徒が、憧れのテキサス大学に入学していたのは、白人の自分に対する差別だとして、テキサス大学を訴えたのです。
米国では大学への志願者に対し、歴史的に被抑圧的立場にあった黒人やメキシコ系の生徒を、ある程度優先的に入学させる「アファーマティブ・アクション」という制度が一般的だった時代がありました。特に60~70年代には盛んでした。
現在は、以前ほどは一般的ではありません。例えばカリフォルニア州では1996年以降、入学審査で人種よりも経済的状況や両親の学歴などを考慮するようになりました。このころになると、アファーマティブ・アクションのせいで自分が損をしていると考える白人の声が大きくなってきたのです。
それでも2000年代に入ってもテキサス大学にはアファーマティブ・アクションのような制度が入学審査項目の1つとして残っていたんだそうです。
ただ、テキサス大学のような大規模州立大学は、地元の高校で成績の良い(上位10%以内)生徒は、ほぼ希望通りに進学できるというルールもあります。
その枠に入らなかった場合、人種なども考慮して審査を行うということになっていました。
ハーバード大学の入学審査にもあるように、何を基準にして生徒を選ぶかは、米国では各大学で異なるのが普通なので、それは問題とは考えられなかったのです。
でもこの原告の女性は、どうしても納得がいかなかった。
そしておそらく、親の知り合いなどにその裁判をやることに乗り気な弁護士がいて、彼女の家もその弁護士費用を支払うことができた、ということでしょう。
結局裁判は長引き、最高裁まで行ってその結果、2016年に訴えは認められずに終了します。
この時、上の不名誉な呼び名が出てきました。
それでも彼女は自分の信念を訴え、結果が出たのだからそれはそれで、こんなハッシュタグを考えて揶揄している立場の人より、もしかしたら立派なのではないかと思ったりもします。
以前の記事で触れたハーバード大学の裁判を含め、米国のアファーマティブ・アクションについて、もう少し詳しく知りたい方は、こちらのThe New Yorkerの記事がとても参考になります。