バイリンガル子育ての失敗談を最近、よく目にします。少し体験談などを読んでみると、この「失敗」とは、親が思ったほど両方の言語が伸びず、途中でバイリンガル子育てをあきらめ、成人するころにはほぼモノリンガル(一言語話者)になってしまった、という事態を指しているようです。
これには様々なケースがあると思われますが、大きな原因は、幼少期に両言語、特に母語のインプット方法や量・質が十分でなく、1. 母語がしっかり確立しないうちに、社会的に優勢な言語、例えば英語の環境にいることが増えて英語の方が優勢になり、 2. 「バイリンガル」だといえるような、日本語を取り戻すのに質・量ともに十分な言語環境をその後、整えることが難しかった ことだといえることが多いようです。
ややまどろっこしい言い方になってしまいましたが、いろいろな家庭があり、様々な選択肢があるのですから、何をもって「失敗」というのかは難しいところがあると思います。
親としては世間で言われている「バイリンガル」にはならなかったから失敗だと思うのかもしれませんが、「バイリンガル」の定義だって、実はいろいろあります。
「失敗」だったと思っているのは自分が思い込んできた基準だけで考えているからかもしれません。
そんなことも思いつつ、以下では、ざっくりとよくある事例でいわゆる「失敗」の原因を考え、「成功」の秘訣を考えていきたいと思います。
目次
英語圏でバイリンガルに育てるケース
幼少期には家の中外で母語を育てる
バイリンガル子育てで重要なのは、両言語の基礎になる母語、つまり第一言語を幼少期に確立すること、というのは一つの定説です。
確立というのは、ペラペラ会話できるということではありません。
我が家の経験や、これまで何十家族ものバイリンガル家庭を見てきた経験からは、母語で早めに文字を読めるようになることが、大事な要素といえると思われます。
そのためには、なるべく自然に母語を読み始めるような環境をなるべく作っていくことが大事で、絵本の読み聞かせなども重要になってきます。
0歳からの読み聞かせは、日本でも英語圏でも、かなり奨励されていると思います。
特に国際カップルの場合、幼少期に両言語がペラペラでも、学校の言語が入ってきた時点、つまりキンダーぐらいで母語の維持が難しくなることがあるようです。
これを避けるためには、子どもの興味があるものが日本にあることが重要です。
ゲームでも、遊びでも、テレビでも、とにかく子どもが自然に、自分の興味のあるものに日本語(ひらがな、カタカナや漢字)で触れる機会を増やし、できるだけたくさんの読み聞かせをしていると、幼稚園ぐらいで子どもが自分で、ひらがなあるいはカタカナで書いてあるものを読めるようになることは結構あります。
(本や文字が嫌いな子どもは、そうならない場合ももちろんあります。その場合は別の工夫をして、日本語をサポートする必要があります)
英語圏にいる場合は、家族で母語を育てる方針があって、親同士のネットワークで日本語を使うことが多ければ、子どもは英語のプリスクールや幼稚園入学前までに「家では日本語、外では英語」という使い分けがかなりできるようになります。
あるいは母親とは日本語、外と父親とは英語、という風に使い分けるようになります(もちろん、必ずそうなるということはありません)。
日本語のプリスクールやベビーシッター・サービスがあるならば、積極的に利用するとよいと思います。
日本人カップルは英語との接触機会も忘れずに
もちろん、日本人カップルの場合は幼少期に家・その他の場所でも、子どもが英語に接触する時間を意識して作ることことも必要です。
外で英語を使う機会を見つけ、そこに子どもを参加させるということですが、英語圏にいれば、習い事をしたり、プレイグループに入ったりすることもこれに含まれます。
幼少期に、過剰に英語を排除することなく、無理のない形で英語の音にも慣れてもらうことは案外、重要だと思います。
そのように母語をしっかり伸ばしつつ、第二言語の世界にもある程度触れておくと、キンダーに入って丁度学校で英語の読み方を習い、毎日英語が入ってくるようになりますが、日本語も高めつつ、それが英語にも応用されていく素地が作られるようです。
母語の日本語を伸ばす環境づくり
さらに国際・日本人カップルを問わず、母語である日本語を高めるためには家庭以外で日本語を使う場所を確保することも重要です。
なぜなら、言語で重要となるのは、日常会話の言葉ではなく、抽象的な思考をするのに役立つ、学習言語だからです。
学習言語まで家庭で教えていくのは、至難の業です。
そして、学習言語まで母語で獲得できるような素地ができていないと、第二言語の習得まで遅れる可能性が出てきます。
ですから日本人家庭でも土曜日の補習校付属幼稚園や、日本語のプレスクールを利用することはおすすめです。
日本でバイリンガルに育てるケース
英語の環境をどれだけ整えられるのか
日本で日英バイリンガルに育てる場合には、少し事情が変わってきます。
とはいえバイリンガル子育ての基本は結局は同じです。
例えば、日本では、当然基本的には日本語が多数派の言語で、英語が少数言語なので、家の中を英語に保つことでバイリンガルを目指す、というのは一つの選択肢です。
この場合はもちろん、母親が日本人でも、英語で読み聞かせをする、テレビ番組も英語にする、英語で遊ぶ友達を見つける、父親と一緒にするアクティビティは英語でするなど、英語で楽しいと思える活動を継続していく工夫が必要になります。
英語の絵本には、文字が少なくて楽しいものも数多くありますから、読み聞かせは親子で楽しめると思います。
父親が協力して、たくさん本を読んでくれるなどの支援があるとずいぶん助かるでしょう。
ただし英語の場合、自分で英語を読めるようになるには、フォニックスやサイトワードは家庭で教える必要があります。
上の、英語圏で母語の日本語を伸ばすための方法として、補習校や日本語のプレスクールに通うということに触れましたが、それと同様、日本で英語のプレスクールや週一回、家庭外で子どもの知的好奇心を刺激してくれるような英語の場に通うなどということは、必ず必要になるでしょう。
日本語はどう育てるのか方針を決める
また、母親といつ日本語を使うか、ということも方針として決めておかなければなりません。あるいは本当にまったく使わないという方針もあるでしょう。
日本で日本語の友達が全くいないというのもおそらく不自然ですが、例えば母親が英語で話しかけると決めたならば、家以外の場所でもちゃんと英語に切り替えて対応できるのかも重要です。
もし、それが無理ならば、「家の中は英語」という方針に無理があるということもあるかもしれません。
もしそうであれば無理をせずに母語の日本語を確立させ、英語は父親に主に担当してもらって音や会話に慣れる程度にしておきつつ、後々、英語の環境にどっぷりつける機会を考える、という方法の方がうまくいくというケースもあると思います。
英語を第一言語としてしっかり育てる方針がぶれなければ、日本語は最初、語彙が少ないこともあるかもしれませんが、英語の能力の上昇と共に後々必ず追いつきます。
バイリンガル子育てには、両親が子どもに英語の話しかけや読み聞かせを豊富にすることはかなり重要な要素です。
英語にしても、日本語にしても、つまり幼少期に母語、あるいは第一言語を確立できないと、その後の言語の発達に苦労が伴うことがあるということです。
とはいえ言語習得は長い道のりですから、多くの場合、後からそれを取り戻すことは不可能ではないようです。
まとめ
バイリンガル子育てには、母語・第一言語の確立をしっかりさせ、その後第一言語の質を高めつつ、第二言語との質の高い接触の機会を設定することが重要です。
母語が少数派の言語である場合、その母語を幼少期にできるだけ育てることができるかが、その後の言語発達の鍵となります。
「質が高い」と書いてはいますが、要するにバイリンガル子育てには、子どもの知的好奇心が満たされるような経験を、両言語である程度提供できる環境が必要となってきます。
日本語だったらアニメは大いに結構ですし、英語だったら実に様々なメディアがありますし、TedTalkerやYouTuberも大勢います。
我が家で一番効果があったのは、おそらく幼少時の母語での読み聞かせです。
子どもが3人ということもあり、長女は小学校高学年まで、夜寝る前に日本語の読み聞かせをされていたと思います。
そして、特に下の子どもたちは自分の対象年齢よりも少し上の書き言葉を毎日、聞かされて育っています。
とはいえ親の言語と子どもが使う言語、そして使いたいと思う言語は、思ったように発達しないこともあります。
言語は社会的な側面があり、社会で成長していくのは子ども自身なのですから、親の努力だけではどうにもならない部分があるのです。
それでも、その場その場で親が最善の選択をしたことに変わりはないと思います。
よく言われるように「子育てには失敗はない」はず。後で失敗したと思っても、そのように反省する親は、その時その時、最大限の努力をしていたはずです。
その結果、親が思っていたように子どもが育たなかったとしても、それは「失敗」ではないと思います。
また、「バイリンガル」の定義も、二つ以上の言語がその4技能(読む・聞く・話す・書く)全ての面でバランスよく同じレベルで使いこなせること、だとする人が多いようですが、そのようなバイリンガルは少数です。
大抵の人は、どちらかの言語が強いものの、日常的に二つの言語を使用しているのです。それで立派な「バイリンガル」ですし、本質的な問題があることはないのが普通だと思います。
簡単に失敗などと決めつけず、長い目で子どもの可能性を信じていける世の中になってほしいものです。