Black Lives Matterと日本の多文化教育(1)

BLMと日本

昨年、大坂なおみ選手が「Black Lives Matter」(黒人の命を軽く見るな、という意味、略してBLM)の運動支持を表明し、警察の暴力で命を落とした人々の名前を書いたマスクをつけて、全米オープンテニスの試合に臨みました。

BLMについては、こちら↓でもその背景を説明しています。

 

このころ、日本では「日本に黒人差別はない」という主張や、大坂選手の姿勢に反発する声もありました。

この議論は、すでに出尽くした感もありますが、いつも何かがかみ合っていないと感じていて、別の機会にもう少し考えたいと思っています。

ここではこれに関連して、差別の問題は「差別はいけないことだとわかっている」とか、自分や、自分の所属する社会に「ない」から自分には関係ない、と片付けてしまっていいものなのか、ということについて考えてみたいと思います。

先に結論を言うと、多文化化が進んでいない日本だからこそ、子どもたちと、そのような話題について、対話する場が学校などでも必要なんじゃないかと思います。

「バイリンガル子育て」や「バイリンガル教育」をテーマにしたサイトで、差別の問題を取り上げることに違和感を覚える方もいるかもしれませんが、言語は社会の中で使われるものであり、社会の問題である差別や偏見とは切り離せないものだと思います。

バイリンガルという言葉や概念そのものも、社会から差別されていた時期もあるといえます。

NHKのBLM解説アニメ動画

私が気になっているのは、しばらく前にNHKが作成し、公式ツイッターで拡散したBLMについての解説アニメが、あまりにもひどかった件です。

当然あちこちから批判され、謝罪文も出ました。

 

でもテレビ局では、動画一つ作るにも大勢の人が関わっているはず。

それなのにこの時代に、あのようなアニメを出して問題ないだろうという意識が、番組の責任者と、その周辺に存在していたことは間違いないと言えます。

その点については「謝罪文を出して終わり」ではなく、もう少し、深く考えられてもいいんじゃないでしょうか。

日本で人種・民族の差別・偏見問題に取り組む意味

もちろんこの手の差別や偏見の問題は日本だけにあるわけではありません。

アメリカの映画「モンスター・ハンター」で、「Chinese, Japanese, Dirty Knees(中国人、日本人、汚い膝)」という英語の遊び歌にかけたジョークのセリフが差別的とされ、中国では公開中止になったのも最近です。

このセリフがアメリカで問題視されなかったのか、もしそうであればその理由は、セリフがアジア系俳優の言ったものだからなのか、などの詳しい事情までは分かりません。

アジア系に対するステレオタイプや偏見も、もちろん英語圏でも今もなくなってなどいません。

でも多文化社会のアメリカでは、例えばニュース番組のキャスターも、かなり前から人種や民族的バランスをとろうと努力しています。

NHKとはもちろん違いますが、例えばアメリカのNPRなどで、NHKのアニメのようなものが流れることはありえないといえます。

これは多文化の広がりが違うことも大きな理由です。

そういったことを考えると、日本は他国より多文化じゃないから、仕方がないという面があるともいえると同時に、だからこそ、もう少し今の時代に合った、偏見についての教育が普及したほうがいいのではないかと思ったりするのです。

それこそ「国際人の教養」の一つとして必要なのではないでしょうか。

偏見・差別を学ぶのは幼稚園時代

人間は全知全能の神、のような存在ではありませんから、いろいろ限界があります。差別はしないように気をつけていても、「思い込み」のようなものは人間に、必ずあります。

何せ、われわれの受け取る情報量はとんでもなく多い。

そのカオスに圧倒されて、動けなくなってしまわないように処理することは必要で、情報を「敵、味方」のように、ある程度簡単に、対立する二項目などに分けて整理していかざるを得ない部分があるのではないでしょうか。

だとしたら、知らず知らずのうちに、何らかのバイアスを獲得しているのは、むしろ人間として当たり前でしょう。

子どもが人種差別や偏見を学ぶのは、一般的に3~5歳のプリスクール・幼稚園時代だといわれています。

「思い込み」や「偏見」に気づく学び

自分の中にある「思い込み」や「偏見」は、小さなころに一度学んでしまうかもしれない。

でも、だからこそ、学び直すこともできるはずです。

また、そのころからそのような「思い込み」に対処していくことも可能です。

差別と偏見・ステレオタイプは違いますが、偏見が差別につながっていくことは知られています。

偏見・ステレオタイプは思い込みの一種です。

そして「思い込み」の危険は、このコロナ禍と、20年の米大統領選ではっきりと示されたと思います。

自分の「思い込み」に気づき、別の見方を考えていくという作業は、子どもの学びにも非常に大切なもの。

人種や民族、ジェンダーについての思い込みについて、子どもが疑問を持った時、何か学んでいっているとき、うまく対話していける環境がもっと整うといいのではないかなと思います。

長くなってきたので、続きは次の投稿に書きます。

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