ブレない「子育て論」の作り方

子育て真っ最中のみなさま、お疲れ様です。

子どもに恵まれて、幸せな毎日のはずなのに

特にお母さんはストレスがたまって、イライラしてしまうことも多いですよね。

 

「こんなはずじゃなかった」

「疑問だらけ」

「なんとかしたい」

 

などという思いがつのり、いろいろな子育ての「専門家」や「アドバイス」を読んだりする人も多いと思います。

 

でもそんなアドバイスを読んでも、すべてが解決するわけではなく

なんとなくもやもやした感じが残ることも多いのではないでしょうか。

この記事も子育ての悩みをすべて解決することはもちろん、できません。

でも子育ての悩みを考える視点、そのものを変えるきっかけになればいいなと思い、書いてみます。

そもそも私、自分の子育てはまったく間違っていたなと反省すべき点ばかりです。

特に第一子…

ですので偉そうなことは何も言えません。

でもその過程で、子育てについて学びながら育てる、というカリフォルニア・デービスのプリスクールに3人の子どものうち2人を通わせ、そこで多くのことを学んだり、いろいろな子育て論を読んだりして、こう考えればよかったのではと思うこともあります。

特に視点が変わると、ものの見え方が変わる、ということについては、教育学の文献でもよく読んでいた時期があり、子育てが一段落した今、子育てにも結局、同じことがいえるのではないかと思うことが出てきました。

簡単に言うと、もっと「ゆるい」子育てにシフトしたほうが、結局うまくいくんじゃないだろうか、ということです。

ただ、いわゆる叱らない子育てとか、単に放任する子育てを推奨するのとは、違います。

叱るか、叱らないか。それはまた別の問題です。

ここでいう「ゆるい」子育てというのは、ある「子育て論」を読んでも、それは多くの場合、その子育て論を言ってる人にしか当てはまらないことも多い、と思ったほうがいいんじゃないか、ということです。

子育て論そのものとの付き合い方で力を抜けばいいんじゃないか、という話です。

そんなことできてるよ!という方にはすみませんがスルーしていただいて、

興味のある方に読んでいただければ嬉しいです。

子育て論をどう考えるか

子育ての視点といっても、分かりにくいかもしれませんが、「木を見て森を見ず」っていいますよね。

本当に忙しくて大変な子育ての日常にいると普通、「森」なんか見えやしません。

子育てで言うと、「木」は具体的な一つ一つの子育ての悩みといえるかと思います。

 

「夜、なかなかまとめて寝てくれない」

「母乳はいつまであげるべきなのか」

「言葉が出ない」

「うちの子って乱暴??」

 

いくら「他の子と比べるな」と言われても、子育て中は比べられることがどんどん出てきて、その一つ一つが悩みになる可能性があります。

「森」を見ようとしても、「子育て論」みたいなものがこれまたいろいろあって、それぞれが「林」を形成してます。

こっちではこういわれているけれど、あっちではこういっている。

 

親はいちいち、混乱します。

 

結局「自己流」でやるしかない、ということになったりしますが、それもなんだか自分で納得できていなかったり。

そのような子育てについての「森」も、普段はあまり語られないんじゃないかなと思うのです。

でもそんな「森」について理解するなんて、それこそ子育て中の忙しい自分には無理なんじゃないかと思われるかもしれません。

森を見るということは、全体を俯瞰する、ということだと思いますが、実はそれって「神」でもないかぎり、なかなか難しいんではないでしょうか。

でも、そもそも「森」全体を理解する必要はないかもしれません。

ただ単に、一つ一つのアドバイスが「林」の一部の「木」だとわかっているだけでも、

つまり、違う林に行けばその林にあった、各木に対するアドバイスがあって、異なることもある、とわかっていれば、それだけで楽になることもあるかもしれません。

「人に迷惑をかけない」という子育て目標の問題

日本人はよく、「人に迷惑だけはかけないように」育てることが

子育ての目標になっているみたいですが

そもそも人に迷惑をかけないで生きていける人って、よく考えるとほとんどいないですよね。

相手が迷惑かどうかを常に考えている人生っていうのも

かなり疲れるのではないでしょうか。

「人に迷惑をかけないように」という前提があると、迷惑がかかる「世間」とか「社会」の秩序のようなものを、とても尊重しなければなりません。

もちろん、社会のルールをすべて無視するのは困りものですが

社会にあるルールのようなものをすべて、尊重するのもまた、少々無理があります。

「空気を読む」というのも、大変高度なテクニックであり、能力です。

そもそも、小さい子は空気なんて読みません。

それがかわいらしさを誘うときもあれば、大人の神経を逆なですることもある。

他人の迷惑を考えるよりも、まず、目の前にいる子どものそんなかわいさ、おもしろさをよく見て、受け止めてあげることが、実は大事なのではないかなと思います。

ここでは「ゆるい子育て」といっても、社会のルールを教えないということではなく、親が自分を見失わないで済む、社会の迷惑にならないことだけを考えなくても済むような子育て、ということいえるかもしれません。

少し抽象的な話になってしまったので、もう少し具体的に、「自分を見失わない子育て」について、以下で考えてみます。

 

「子育ての専門家」のアドバイスから距離を置く

目の前の子どもを見ることが大事とはいえ、子育てに悩みはつきものですし、子育てのアドバイスはメディアにあふれていますから、読むこともあると思います。

それも大いに良いことです。

先人の知恵を利用できるなら、それに越したことはありません。

でも自分の子どもや、自分自身の問題になかなかピタッと当てはまるものがないことも多いと思います。

また、悩んでいるときはどんなアドバイスを受けても、自分のうちでやってみようとしてもうまくいかなかったり、またそんな風にできないことが続くと、自分が「ダメな親」に思えたりして、ますます焦ってしまうこともあるかもしれません。

私たちのような悩んでいる親は、「こうすればいい子に育つ」「こうすれば頭の良い子に育つ」というような、子育ての「専門家」の提唱する、子育ての公式のようなものをつい探します。

苦しい今を救ってくれる、解答を求めているからかもしれません。

でも子どもも、家族も、一人ひとり、それぞれ、置かれている立場も、状況も、そして育ちもまったく違うのです。

それなのに、こうすればこうなる、という公式を求める方が無理があるのではないでしょうか。

教育学でもよくあるのですが、私たちはよく「このような人材が必要」だからという理由で「このような教育をした方がいい」という形で議論します。

でも、子どもたちは単にそのような、生産ラインの最後に出てくる製品なのでしょうか。

もちろん、それだけでなく、その「プロセス」も大事ですよね。

 

自分の「子育て論」=「専門家」との「対話」の中で、自分との「間」にある答えを考え出す

子育ての専門家がいうようにやってみて、うまくいかないこともある。それは専門家が悪いのでもなければ、自分が悪いのでもない。

ただ条件とか、持って生まれたものとかが違うだけなのではないでしょうか。

そう考えれば「参考にならない」子育て論があふれているのも当然です。

とにかく現代は、価値観も、バックグラウンドも、数十年前と比べて多様化しました。

誰かのいうことが多くの人に当てはまらなくても当然です。

子育ての専門家、特に自分の子どもの子育てに基づいた子育て論を提案している人のいうことは、本当に「参考」事例として考えれば気が楽になると思います。

そしてもちろん、この記事の「子育て論」も、専門家のいうことではないですし( ´艸`)、参考にもならないかもしれません。それで、いいんです。

真面目な親は、「専門家」のいうことは、「絶対」であるように感じたり、少なくとも尊重されるべきと感じたりする人も多いと思います。

あるいは、それがうまくいかないと今度は「完全否定」する。

でもそうではなくて、その「中間」をとればいい、と思えば気が楽にならないでしょうか。

つまり、専門家の意見はただ「参考」にしつつ、自分のケースと比べて、専門家の意見と対話するような感じで、自分自身の回答を自分で作り出していくと考えるんです。

「対話」とか、「自分との中間」というと、難しく感じるかもしれませんが、要は「専門家」の言うことは参考程度にして、自分なりの「ゆるい子育て」、「自分を見失わない子育て」をすればいいと割り切れば、楽になることもあるかと思うのです。

そしてこれは、「バイリンガル子育て」にも当てはまるんじゃないかな、と思います。

一番目の子どもを育てながら、大いに悩んでいた自分に、できることならそう言ってやりたかった、ような気がしています。

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